理由がうまく説明できない事

 
 
 

読んでも全く何も書いてないぐだぐだな話です。

 

私はちょくちょく利用するのだが苦しい経営が続いているブックオフ

diary.uedakeita.net

ブックオフに関連した上記のエントリーのネタもなかなか辛辣(愛情?)だが、節操ないブロガーなら全ての漫画にアフィを貼るだろうところを、オチのキングダムのみという点が潔く好感が持てる。

 

私は一度だけ近所のブックオフの閉店セールを体験した事がある。閉店理由は建物の老朽化とされているが本当の理由は知らない。閉店前からセールのアナウンスがされており、私もセールを狙っていた。

ブックオフに限らないが、立地や店長の考え方で店の傾向は大きく異なる。私は過去20店舗程度のブックオフに足を運んだ事があるが、閉店した店舗ははっきり言って酷かった。

酷かったと書くと店員の態度が悪いとか誤解されそうだが(態度は悪くないが問題はあり後ほど記述する)そういう意味ではない。問題は主に客、この店は有得ないほどにせどり客が多かったからだ。

 

せどり客の多かった店

せどりは周知の事と思うが、ブックオクなどで安く仕入れた商品をアマゾンやオークションなどで販売して利益を得る事である。スマホとネット環境が整った事でせどり人口も増加しただろう。ビームせどりとよばれる手法で、商品情報を読み取る小型端末を使い瞬時に大量の商品情報を読み込み、売れ筋や、値段などをその場でチェックし売れ筋のものや高値販売が見込めるものを大量に仕入れていく。

数は少ないが、ブックオフ自体を倉庫代わりにするせどりもある。要は大量に仕入れると在庫を抱える危険性があるため、そのリスクを回避するために店で商品をチェックし、ネットに販売情報を掲載する。画像はネットで拾ったものを転載。そうする事で注文が入った時だけ、ブックオフに仕入れに行くというやり方だ。リスクは減るが、注文が入ってもすでに売れている場合もあったり、毎回店舗に購入に行く必要があるので手間がかかるというマイナスポイントもあるため、多くはビームせどり派だろう。

 

で、私の近所のブックオフはこのビームせどりをする客が毎回いるのだ。せどりをする客は何度も顔を見る人もいれば、一度きりの人もいた。年齢層は、下は20代から上はどう見ても70歳は超えた白髪の老人まで幅広かった事にも驚いた。意外だったのは、一人でせどりをしている人ばかりかと思っていたが、実際はそうではなかった。一人のせどりもいたが、カップル(聞こえてくる会話で推察すると多分夫婦)や友人同士、グループ、あとは一人でやって来ているがせどりをする者同士のネットワークがあり顔見知りになっている者もいるようだ。別の店舗にいる仲間とも連絡をとりったているようで、あっちの店はどうとかそういった会話をしていた。別に彼らの会話にいちいち耳をすましているわけではないが、嫌でも隣から聞こえてくる事がよくあった。

これは傾向なのか、偶然なのかは分からないがあくまで私の経験則では漫画やゲームの棚では彼らとはちあった事は無かった。いつもハードカバーの本や文庫、参考書、専門書、写真集、画集などのコーナーであった。まれにCDやDVDのコーナーでも見かけたが回数は少なかった。

これは売れ筋が書籍中心なのか、そもそもブックオフのCDやDVDの値段がシビアなせいかは分からないが、一つの傾向と言って差し支えないだろう。漫画は多分、利益も少なく、巻数が多くなると在庫問題もあるので避けられがちなのだろう。

 

私が冒頭、店員に関しても態度は悪くないが問題はあると書いたのは、この店舗ではせどり客と親しい関係の店員が多い事だった。頻繁に来店するため親しくなった可能性はあるが、彼らは決してせどり客に注意をしているところを見た事がなかった。大量に籠を置いて通行の邪魔になっていても店員は注意せず、せどり客と談笑していた事もあった。

また、見間違いでなければ勤務を終えた店員が着替えた後、せどりを始めほかの店員も容認していたようだった。ブックオフでは店舗によってはせどりを禁止している店舗や控えるよう呼びかけている店舗もあり、そういった店舗と比較すると雲泥の差といえる。

因みに多い日だと私は同じ店舗で六人のせどりをしている人を見た事がある。別に二十四時間その店舗にいたわけではないが、流石に多いなと思い未だによく覚えている。

 

せどりは問題なのか?

では、せどりが問題なのか?と問われれば、はっきり言って店にとっても客にとってもマイナスになる事は少ないだろう。店にとってみれば、マイナスどころか大量に購入してくれる上客と言い換えることも出来る。せどり客を嫌う一般客離れの懸念がある点はマイナスといえるかもしれない。

 

客にとってのマイナス点を考えると、一つは棚の前でずっと居座られる事があり邪魔、二つ目は大量に購入するため籠を何段にも積み重ね、通路に置いたりして邪魔になるなどが考えられる。

一つ目の居座るに関して言うと、じゃあ立ち読みはどうなの?と疑問がわくだろう。寧ろ立ち読み客の方が長い間居座っている事のほうが多く、そっちのほうが邪魔だという人が多いかもしれない。

二つ目の大量購入による籠の積み重ねは確かに邪魔でこれはせどりをする人特有と考えてよいだろう。まれに普通に大量購入する人もいるだろうが、多くはせどりの人だと考えられる。通路を塞ぐ行為は、単に日常的に邪魔なだけでなく万が一の災害や犯罪、火災などの場合に非難の妨げになる可能性があり、これは重要な問題でもあるため非難されて当然だろう。

そのため、せどりをする人の中でも大量購入はやめる、籠一つごとに会計を済ませるなどの方法で対処しているようだが、そうではない人も未だに多く見受けられる。少なくとも私の行く店舗ではそうだった。

 

これ以外で思いつくとすれば、端末での読み取りやスマホでの検索行為が鬱陶しいという人もいるかもしれないが、これを理由をつけて批判するのは少し難しい。じっと立ち読みをしている人や普通に本を探している人と比べれば動作が多いので鬱陶しいとも言えるし、読み込む際に手際よく本をさばいていくため、本の扱いが雑で傷むのではと批判もできるが、そもそもブックオフのような古本屋でそのレベル扱いでの本の痛みをどうこう言うくらいなら、はじめから新品の本を買える店舗に行くだろう。

 

閉店セールで見た光景

私が閉店セールに行った日は大変な行列で店の中だけでなく外まで何重にも列ができていた。セールの日は勿論今まで見かけたせどり勢もオールスターせいぞろいだった。ごった返す夏の店内は人の汗と古本の匂い、べったりとした空気がなんとも言えない匂いを生み出していた。本当に暑さと人の多さで正直長時間いる事が苦しかった。

あまりの暑さにせどり勢も持参のペットボトルで水分補給しつつ、大量の籠を量産していた。流石に床に置くと邪魔なので何故かレジ横に積み上げていたようだが、私が酷いなと心底思った瞬間がこの日だった。

 

それは彼らの一部が籠に入りきらないものを棚の上に積み上げていた事だった。大雑把に見つけた良さげな商品を大量に積みあげたものか、全て買う気なのかは分からないが、要は自分たちで商品を予め独占している行為に等しかった。

ある普通の客が、そういった事とは知らずに単に棚の上にある本と思って手に取った際、せどりをしていた人物が「それは自分のだから触らないで」といった内容の注意をしたのである。普通の客からしてみれば何を言っているのか分からなかったに違いない。どう見てもただ棚の上に積まれてあるものにしか見えないのに、それを触るなといわれるなど考えもしなかっただろう。

こういった本が何十冊も棚の上にあった。それは同一人物がした事なのか複数なのかはわからない。だが、私は心底彼らの行為に苛立ちを覚えた。

また、床に籠を積み上げる行為は万が一の際、避難の妨げになるためやめるべきだと前述したが、この日のような人がごった返す状態で、棚の上に何の支えもない本を大量に積み上げるのが非常に危なく感じる。本当にあの日、何かの災害が起こっていれば、元々大量にある本だけでなくさらに上に積まれた本が落下してくる事を想像すると、やはりぞっとする。

 

レジや整列で手がいっぱいの店員にそれを正すよう求める事は酷な事だろうし、何もかも店員にお願いするのもこちらの傲慢とも言える。(見えないところで呼びかけなどはされていたかもしれないが)

だが、この店舗で日頃から彼らに対してもっと抑制するような働きかけや呼びかけがあったらどうだっただろうか?私が最近よく行く別店舗ではせどりに関する大量の張り紙や目に余る行為には声かけがされているようだが、全くといってよい程せどり客を見ない。まれにそれらしい客がいても大量の籠を床に置いてなどの行為はない。

もし、この店舗が閉店する際も私が以前行った店舗のような行為は発生しづらいのではないだろうか。日頃から、この店はせどり行為やそれから派生する迷惑になりかねない行為に厳しいという印象がすでに彼らにも植え付けられているだろうから。

まぁ、セールになったらそんなの関係なくやりたいようにやる客はいるだろうし、この店舗がだめなら他へ行くだけという人もいると思うので、一概には言えないが少なくとも、日頃から何かのアクションを起こしている店舗とそうでない店舗の違いはわずかではあっても生じてくるように思う。

 

勝手に狡さを感じる

ぼんやりとした事を書いてきたが、率直に言うと私はせどり自体は特段悪いとか良いとか何も思っていない。だがいつも、「せどりをしている人」にイライラしていた。上記したいくつかの曖昧な理由では批判の根拠としては全く機能しないと自覚している。では何故「せどり」には何も思わないのに、こんなにも「せどりをしている人」に苛立つのだろうか?

結局のところ、狡さを感じてしまうからなのだろう。普通に本を買いに来た自分たちとは違い彼らは儲けるために来ている。儲ける事は悪い事ではない、だが、横でそれをされる事に苛立つ自分がいるのだ。

立ち読みも金を払わずに知識や情報、楽しさを得ている、それだって利益といえるし、本を買ってお金は減っても何かを買う楽しさや満足感、所有感、買って読むことで得る知識も自分にとっては立派な利益といえる。

だったら、同じ時間を使ってせどりをしお金を得る人、立ち読みをして無料で知識や情報を得る人、お金は減るが所有感やゆっくりと読む機会、知識を得る人。それぞれ得るものは違えど、目的が異なるだけで実は変わらないのではともいえる。

 

うーん、でもせどりした本売れるまでは読めるしやっぱりせどりしてるのずるいよなぁ、とか結局堂々巡りしてしまう。直接損はしていないが、彼らの方が得しててズルイって感情が何処からかわいてくるのだ。

こんな風に自分にはうまく説明できない感情がよくあるが、ネットでブログやブックマーク、コメントなどを見ていると皆ちゃんとそれを言語化し説明できていてすごいなと思ってしまう。説明できないだけでなく、うまく処理できているのか自信が無い時も多々ある。こんな時は野菜とか瞑想とかすればよいのだろうか?

 

まぁ、たかが数百円で悩んでいるただ単に私がセコイだけと言えば全てに説明がつくか。だったらはじめからせどりがいない普通の本屋へ行けよと言われればそれまで。でも、自分がセコイとか認めたくないしなぁ、とか小学生みたいな事も一瞬頭に浮かびすぐに消えを繰り返し、別の感情の問題へとダラダラと繋がってしまう。

駄目だこりゃ。

 

終わりそうに無いので今回はこれにておしまい。

 

神山健治監督作品『ひるね姫~知らないワタシの物語~』

 
 
 

先程、早稲田大学内での神山健治監督のトークイベントが終了した。この模様はLINELIVEやニコニコ生放送でも中継され、入念なリハーサルをしたであろう司会進行や、過去作品を振り返りつつ新作情報の公開、新作キャラの着ぐるみ登場、質疑など充実した内容で幕を閉じた。

会場の質問者には笑い男のお面をかぶった男性や中国でアニメ制作をしていて現在日本に留学中の方や、押井監督との関係や違いに関する質問をなげかける方などコアな神山監督ファンがいた。

 

新作『ひるね姫~知らないワタシの物語~』

多くの人は新作に関心を寄せていると思うが、公式特報でも気になる点がいくつか見られるので箇条書き程度に挙げていく。


映画『ひるね姫 ~知らないワタシの物語~』特報【HD】2017年公開

 

何故舞台は岡山県なのか?

今作の舞台は岡山倉敷市児島。どうしてこの舞台が選ばれたのかと疑問を持つ方も多いかもしれないが、トークイベントで神山健治監督曰く「自分は埼玉県秩父市出身で、出身地を舞台にとも考えたが、すでに作品があるので、だったら別の場所でと」

その後西の方へ向かい、舞台として選ばれたのが今回の岡山だったようだ。

監督は秩父市が舞台の作品名を具体的に挙げなかったが、多分『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』か『心が叫びたがっているんだ。』の事を指しているのではないだろうか。

また、瀬戸大橋が見える舞台というのも背景としての美しさだけでなく物語りになんらかの関係があるのかもしれない。瀬戸内を舞台としたアニメ映画としては、沖浦啓之監督の『ももへの手紙』が記憶に新しいだろう。『ももへの手紙』は監督自身のルーツに瀬戸内が関係しているようなので舞台に選ばれたようだ。


2012年4月21日公開 映画『ももへの手紙』予告編

因みに『ももへの手紙』では父親が他界しているため母親と二人で引っ越してきた少女が主人公であるり、妖怪が多数登場する。舞台はあくまでも現実で妖怪が介入してくるという状況だが、『ひるね姫』の場合、父親と二人暮らしの「岡山の今時の女子高生」が主人公であり、夢と現実を往来するような内容のようだ。

両者とも片方の親が不在である事と、その死または何か伝えたかった事や秘密にしている事が解き明かされる事で、家族や親子の関係が変化する展開が共通して見て取れる。

『ひるね姫』の時代設定は近未来で東京オリンピックが三日後にせまっている点も重要な要素であろう。これがどう関わるのか興味深い。

 

ももへの手紙 [DVD]

ももへの手紙 [DVD]

 

 余談だが『ももへの手紙』の母親役は優香が演じている。非常にすばらしい演技で魅力的。夫を亡くし一人で思春期の娘を育てる母親という役を見事に演じている。批判されがちなタレントや俳優による声優活動だが、こういった脇役でもタレントや俳優が演じている事も多く、実はそういったところで魅力的な演技をしている俳優も多い事は気に留めておきたい。

 

影がほぼ無いフラットな描写

特報を見る限りでは人物に影がほとんどなく描かれている。厳密に言うと、自身の影(首の下などにできるもの)は無く、建物によるキャラに落ちた影のみである。このため非常にフラットな印象を受ける。

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人物だけでなく机などにも影が見られない。

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寄った映像でも影は無い。

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建物による影はしっかりと落ちている。

フラットな印象と書いたが、本来二次元である絵をいかに動かし三次元的に見せるか、街という空間を動き回らせるかといった課題をアニメーションは元々抱えている。従って、情報量を増加するためにも影というのは非常に重要な要素であったが、作業量の増加や、影やハイライトの過剰さで画面全体の情報量は増えても実際のリアリティからは逆に遠ざかったり、画面自体が散漫になりがちなためか、それを回避する作風も少なくない。影を減らす事は作業量の低下に貢献する反面、「動かす」という過程においては欠如した情報量をある程度補充しなければ本当にフラットな画面になってしまう(フラットな画面を否定しているのではなく、今作ではフラットになりすぎると背景とキャラとの乖離が大きくなり実存感が薄れ、作品への没入度が薄れる危険性があるため)動画はより高い力量が求められると推察される。

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では影は全くつかないのかというとそうではなく、これは父親が基盤をいじっている手元だが、指先やハンダコテにしっかりと影が出来ている。ここでも情報量のコントロールからこういった表現が選択されたのだと考えられる。このアップで指や特にハンダコテにハイライトや影が無かった場合、観客は一瞬描かれているそれが何か判断し辛い。

それは0.何秒というレベルの認識の差かもしれないが、映像で何かを伝えるという元でその差は大変重く大きい。

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墓参りのシーン。非常に重要なシーンと考えられ、逆光による影が効果的につけられている。ここで見て欲しいのは逆光による影はついているのに、首や鼻の下や服の襟の影などは無く、逆光の影の一部として処理されている。このシーンで全ての影を排除すると逆光である意味も、キャラクターの何かを思っている心情を映し出す事も難しくなり、それは出来ないだろう。かといって、全ての影を細かにつけるとまた情報過多となり、影の無いキャラクターの線画によって、観客がキャラクターの心情へアプローチしやすくなっている。細かな事だがこういった情報量のコントロールは無論、どういった作品でもなされているが、演出者の腕の見せ所であり個性がよく表れる箇所でもあると思う。

 

近年のこういったフラットな作風といえば一連の細田守監督作品を思い浮かべる方が多いだろう。いつか細田監督に関しても書きたいと思う。

 

謎のキャラクターその1

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この青いキャラクターはどうやら現実世界では主人公が持っていた(過去か現在かは不明)ぬいぐるみのようだが、いったいどういう役割なのか全く予想できないが、あえて想像するならば、母親からの贈り物や思い出の品であり夢と現実の往来を補助し、このぬいぐるみの問題(夢の世界での問題)を解決する事が現実に繋がっていくのではないだろうか。

また、手前のキャラクター(主人公?)の服装も気になるところ。コルセットに南京錠がかかっている点からも、なんらかの拘束があるようだ。

 

謎のキャラクターその2

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ハーツ君。この姿を見てベイマックス?と思った人もいるかもしれない。それもそのはず、デザインは『ベイマックス』にデザイナーとして参加したコヤマシゲトさんによるものだからである。

“ベイマックス”のコンセプトデザインを手掛けた日本人・コヤマシゲト氏へインタビュー 「日本の市場ではベイマックスは生まれなかった」 | ガジェット通信

トークイベントでも公開されていたが、どうやら変形するようだ。公開されていた画像では、サイドカーの付いたバイクのような形になっていた。実際、この映像を見てもタイヤやハンドルが見える。変形したバイクに乗って爆走する主人公が、アニメ映画における必須項目と化しつつある「走る」という行為と画面の動的な面白さをどう見せてくれるのか気になる。

 

因みにトークイベントの最後にハーツ君の着ぐるみが登場。監督との写真撮影をしようとするが、入り口ではさまり、教壇と机との間に挟まり、壇上に上がるのにも一苦労。司会を担当していた早稲田大学の学生さんが終始、笑いを堪えるの必死だった様子が微笑ましかった。それに対し冷静に、壇上に上がれないハーツ君を見てデザインの構造上の問題を発見する様子もまた面白かった。

 

おわり

押井監督が繰り返し描いてきた夢と現実という世界だが、それとは全く異なる人間の変化と成長が見られるだろう今作。アニメ映画としてだけでなく邦画史上爆発的なヒット作となった『君の名は。』も夢(実際は夢ではなく入れ替わり)と現実の交差から物語が進んでいくように、現実の問題や世界をそのまま描く事よりも夢を経由する事でアニメ的にも非現実的な演出が可能となり見る人を引き付け易くなる。それは逆に、現実を現実とだけ描く事の難しさを感じてしまう。公開は来年の予定。

wwws.warnerbros.co.jp

 

キングギドラと長谷川豊と私と

 
 
 

 「殺せ」はスラングではない

※このエントリーは日経ビジネスオンラインでのインタビュー記事発表後に書いていたものを下書きで保存していたものに加筆したものです。この後、長谷川さんの家族へ卑猥な写真や性的玩具が送りつけられたため警察に被害届を提出したとの事。私は彼のブログ内容や対応には批判的な態度をとったが、この事に関しては彼の対応は適切と考えている。無関係な家族への嫌がらせは決して容認されるべき事ではない。本当に抗議の意思があるのなら本人へ論をぶつけるべきだろう。

 

 

 

一連の長谷川豊さんの騒動にはもう触れるつもりはなかったが、気になった新たな発言と以前から考えた事と重なる部分があったので記述しておこうと思う。

 

ご存知のように長谷川さんはあの騒動によりレギュラー番組の全てを降板(休止)されるも、相変わらずの弁解と見当違いの主張を繰り返している。個人的にはあのような形で社会的な制裁を受けたことは気の毒に思うが、その後の虚勢の張り方やいいわけなどを見ているとこの人とは理解しあう事は難しいだろうなと再認識した。

応援してくれる医師や看護師、弁護士の影をやたらチラつかせながら、番組の仲間は必死でかばってくれて感謝しており、あとは言葉狩りをする一部のネット民のせいという主張には首を傾げるしかない。彼の言うように祭りとして楽しんでる層もいるだろうが、問題として捉えている人や当事者や関係者として批判をしている人も多いだろうに、それを全て「祭りを楽しむネット民」というまとめ方で批判をかわそうとする駄目さ。やたら、ネットでの書き込みを俺は把握してるんだぜ(弁護士先生に調べてもらいました)を強調してハッタリをかます幼稚さ。謝罪も番組の仲間が考えてくれたという事を暴露して、逆にそれは庇ってくれた仲間を裏切る行為である事すら分からない鈍感さ。自尊心を守るために必死な姿は本当に子供のようだ。

 

コピペ元のブロガーの方とは直接会ってイメージ回復戦略を展開中のようだが、そんななかで日経ビジネスオンラインでのインタビュー記事が上がっており、そこに気になる言葉があった。

 長谷川:その通りです。あの一言ですね。もちろん、本当に殺せと思って書いたわけではありません。あくまで「殺せ」というのはスラング(俗語)で、僕としてはそれぐらいちゃんとしろよと言いたかっただけではあるんですが。

 渦中の長谷川豊アナ、「『退場』を受け入れる」:日経ビジネスオンライン

 

「殺せ」はスラング?少なくとも日常生活において「殺せ」がスラングだという認識は私にはない。

誰も、彼が現状において本当に人を「殺せ」と主張しているわけではない事ぐらい理解している。強い過激な言葉で注目を集める事で現状の問題を提議し議論を深めたいようだし、問題意識と議論の場の醸成という点に感化された人もいただろう。ブラックマヨネーズの吉田さんの一連のツイートなどが良い例だ。正直に言って、吉田さんはろくにデータや長谷川さんの事実と異なる記述や誤解を誘導する発言などは読んでいない、またはスルーしてしまっている。ただ単に、このままでは日本がヤバイ!議論しないと!議論する事が大事!という思考のまま長谷川さんを支持しているとしか思えなかった。

この手の過激な発言で人々の関心を集め議論を深めるというが、そんな事をして議論が深まった事がどれほどあっただろうか?寧ろ、勇み足で過激な発言をしたものが自己保身のために常套句として使っている印象しかない。

 

彼の言うスラングなど使わなくとも多くの国民は問題意識はもっているし、様々な場で議論されている。付け焼刃の知識とコピペ、事実と異なる情報などで構成され「殺せ」で注目を集めるだけの主張にどれほど、議論すべき価値があるのだろう?それなら彼などよりずっと同じ問題を考え議論してきた先人の言葉や文献に目を通すほうが余程、この国のためには良い。なんの目新しい提示もない空虚な主張をコーティングしてるにすぎない「殺せ」をスラングと呼ぶのは、怒られた子供の必死のいいわけとしか聞こえない。

そして、彼の一連の騒動とそれを彼の意識を象徴する「殺せはスラング」発言、この流れを見ていてふと思い出したのがキングギドラのドライブバイ問題だ。

 

『ドライブバイ』問題

キングギドラZEEBRAK DUB SHINEDJ OASISからなる日本のヒップホップを語る上で欠かせないグループである。そんな彼らが十年以上前に発売したシングル『UNSTOPPABLE』が回収される騒動が当時発生した。問題はカップリング曲である『ドライブバイ』だった。『ドライブバイ』の歌詞が同性愛者への差別や殺害を想起させる内容であるため抗議がなされ回収される事となった。

問題の歌詞は以下の通り。

ニセもん野郎にホモ野郎 一発で仕止める言葉のドライブバイ
こいつやってもいいか 奴の命奪ってもいいか
ニセもん野郎にホモ野郎 一発で仕止める言葉のドライブバイ
こいつやってもいいか 奴の命奪ってもいいか

ドライブバイ/キングギドラ - 歌詞検索サービス 歌詞GET

ここで言うニセもん野郎というのは、売れ線狙いのラッパーや所謂J-rapの事で、そういった紛い物のラップを批判している曲。また彼ら曰くホモ野郎も実際の同性愛者ではなく隠喩としての言葉である、との事。

ここでその十数年後のラジオ、荻上チキセッション22でキングギドラがゲストとして登場した際、この事に関する発言を見てみたい。(以前はポッドキャストでダウンロードできたが、今はTBSラジオクラウドサービスに移行したため過去のアーカイブを聞く事ができない。私も実家に当時ダウンロードしたファイルがあるが、手元にないため書き起こしから引用させていただく)

荻上チキ)まああの、この間いろいろシーンも変わりまして。20年間でいろいろ変化もあったじゃないですか。で、この番組でたとえばいろんな人権 も変化してきたり、社会問題とかも変化する中で、1個だけ、もう時間がないんで聞きたかったことがあるんですけど。あの、ゲイライツの話ってあるじゃない ですか。ヒップホップとゲイライツと。


ZEEBRA)うんうん。


荻上チキ)で、この20年間で海外でもカミングアウトをしながらヒップホップをやるみたいな話があって。日本のリリックの中でも、そのあたりを侮蔑的に 表現することに対する反省的なものも、いろいろ進んでいるような気がするんですけど。ZEEBRAさん、どうですか?このあたり。


ZEEBRA)ええとですね、なんだろうな?


K DUB SHINE)『ニセもん野郎・・・』 。

 

ZEEBRA)あの、昔うちらもね、ぶっちゃけ比喩的な表現として、そのへんやって大問題になったことがあるんですけども。まあ、なんですかね?本当に、当時はね、もともとすごくヒップホップであったり、まあ近いところで言うとレゲエですよね。

荻上チキ)はいはい。

ZEEBRA)とかは。特にレゲエの方は・・・

荻上チキ)レゲエはそうでしたね。

ZEEBRA)そういうのは強いんですけどね。ジャマイカがあんまりそういった文化を認めないところが結構あるんで。そういうのの影響で。まあ、マッ チョイズムも結構ヒップホップの中にはあったんで、そういう時代もあったと思うんですけど。もう本当、いまはヒップホップを好きな人でも、いろんな人が聞 いてるんで。そういうことではないだろうっていう空気はだいぶ生まれているよね。うん。

K DUB SHINE)もう2010年代だからね。

ZEEBRA)そうそう。まあ実際、普通に友達でもそういう人たち、いっぱいるし。そういう人たちはそういう人たちの自由だと思うんで。

ZEEBRA ヒップホップとゲイライツを語る

私は発売当時の騒動は知らず、偶然中古で購入したCDが回収される前の『ドライブバイ』が入ったバージョンだったため普通に聞いていた。トラック自体が良かったので曲としては好きな部類だったし特別歌詞に注目もしておらず、正直に言って当時十代だった私は問題意識すら持っていなかったと記憶している。

ではここで語られている彼らの言葉を見ると、疑問や責任の所在を有耶無耶にしたまま問題そのものには相変わらず向き合っていない事が分かる。

時代の変化とともに社会や人の意識も変化して、当時大丈夫だったものが後々駄目になる事はあるし、彼らが語るようにヒップホップや特にレゲエは同性愛に対する嫌悪や差別意識が強調された部分がある。ジブラさんの言う「比喩的表現」というのは確かに彼に限らずヒップホップの世界では「ホモ野郎」「カマ野郎」といったフレーズが頻繁に繰り出される。アメリカで生まれたヒップホップのマッチョさや不良性と日本語でどうラップするのかを体現してきたキングギドラにとって、それを「比喩表現」として多用する事は理解できる。

だが、彼はヒップホップや特にレゲエは当時そういった傾向が強かったが、今では色んな人が聞いてるから空気も変わってきている、と語っており、決して自身の表現についてはあくまでも当時の表現としか語っていない。また最後には「普通に友達でもそういう人たち、いっぱいるし。そういう人たちはそういう人たちの自由だと思う」という、問題発言(差別関連)をした人間の定番フレーズを発している。つまり、自分には同性愛者の友達もいる、だから自分には差別意識はないという事を言いたいのだろうが、これは過去多くの人がまったく同じロジックで自己弁護に用いた定番だ。

別に私は、差別だ!と彼らを糾弾したいわけではない。前述したように私自身『ドライブバイ』を聞いた時に特別な問題意識を持っていなかった。つまり「比喩表現」として歌詞を書いたジブラさんと、それを普通に聞いていた私の意識レベルは大差ないのだ。だからこそ、彼らが『ドライブバイ』の回収騒動と現在の状況との違いをあくまで時代の空気レベルでしか語れない上に、下らない自己弁護をしている姿があまりにも滑稽に見えた。

 

変化、誤解される言葉の責任、受け取る側と発する側の意識の違い

上記の話には重要な参照すべきエピソードが別にあるため、余計に私はそう感じた。それはジブラさんと伊集院光さんとの論争について。(すでに削除されたツイートもあるためトゥギャッターよりの引用)

今更知ったが、中二病って言葉伊集院光が作ったのか。余計な事しやがって。何にも本気になれない「出る杭を打つ」クソみてえな文化を助長するだけ。島国根性丸出し。

【続報あり】「中二病」をめぐり、まさかのZeebra v.s. 伊集院光のビーフが勃発 - Togetterまとめ

事の発端は、ジブラさんがツイッター上で「40越えてもツイートは中二病」といった内容で煽られ批判された事から。中二病という言葉を知りウィキで調べ、言葉の生みの親が伊集院光さんだったため、上記のようなツイートに至ったようだ。

一連の経過は上記のリンクから把握して頂きたいが、最終的にジブラ、伊集院、両者のDM上で多少の誤解は解けジブラさんはツイートを削除した。後日談としてDM上のやりとりは公開されていないが、伊集院さんはラジオで不満をもらしている。私はその伊集院さんによるジブラさんの言葉に対する見解を聞いて、なんだそれ?という思いに至り、先のドライブバイ問題と合わせて考える要素となった。

彼が言うには、全責任を持たなきゃいけないらしいんだ。
自分の発言したことがどんなに曲解されていこうが誤解を広めていこうが。それを一個一個修正していかなきゃいけない、って言うんだけど、

俺はなんかそこに関しては、無責任なようだけど「原型はそうだった」ってことしか俺には言えない、言葉って進化しちゃうから、「原型はそうだった」としか言えないし。

【続報あり】「中二病」をめぐり、まさかのZeebra v.s. 伊集院光のビーフが勃発 - Togetterまとめ

伊集院さんは個人的な内容のためジブラさんのDMを読み上げる事はしなかったが、彼の主張を上記のように要約してラジオ上で発言している。

あくまでこれは伊集院さんの要約なので、ジブラさんのDM内容と完全に一致しているかは分からないが(因みにジブラさんは「なんか感触が違うなー。俺らのDMやりとり見たら皆はどう思うんだろう?」と若干の違和感を示しているため、受け止められ方が違ったのかもしれないが、あまりにも違う内容であるならもっと強く反論や訂正を求めると思うが、そういった感じではなかったので概ね間違っていないのだろう。違和感は和解していなかったという点においてではないかと思う)、仮にこの文面をジブラさんの主義として捉えると疑問が生じるだろう。

伊集院さんが作った「中二病」という言葉により、自分への批判に用いられたり、出る杭を打つ文化を助長する事になってしまった。それは作った本人の意図を離れたとしても、自分の発言がどんなに曲解されても、それを修正しなければいけないし、全責任を持たなければいけない、とジブラさんは考えているようだ。

では、『ドライブバイ』において「ニセもん野郎にホモ野郎 一発で仕止める言葉のドライブバイこいつやってもいいか 奴の命奪ってもいいか」とラップしたキングギドラはどうだろうか?「ホモ野郎」や「命奪ってもいいか」は彼らの発明ではないため、伊集院さんのように責任の度合いが違うという見解もできるが、「自分が発言した」という点においては同じである。

ジブラさんが言うように「ホモ野郎」の「命奪ってもいいか」はヒップホップには当時そういう側面や比喩表現があったのかもしれない、だが、それを受け止める側である同性愛者にとっては決して比喩だからしょうがないと納得できるものではなかったはずだ。だとすると、セッション22でジブラさんはあくまでも時代や比喩表現、文化としての側面で過激な歌詞を説明、弁解したが、それは彼の言う(伊集院要約によると)全責任を持った事になるのだろうか?

ただ、彼らは騒動が起こった数年後に

磯部:その件について、ギドラのメンバーであるKダブシャインとZEEBRAは以下のように振り返っている。

K-DUB SHINE「オレはゲイ差別者じゃないわけよ。でも、結構そう言われて」「オレはゲイと恋愛関係を持つつもりはないけど、クリエイティヴな部分では尊敬し てますよ、というのがオレの中にはある。あの曲で言ってたオカマというのは、オトコのクセに、オトコらしいフリして、他人のパクリばかりじゃねえか、お前 はオンナの腐ったのと一緒だという意味で、オカマと言っている。『オンナの腐ったの』という言い方も昔ながらのセクシシズムのあらわれになってしまうけ ど。オンナが言う『アンタ、それでもオトコ?』という感覚よ」(『blast』04年8月号、シンコーミュージック)

ZEEBRA 「『UNSTOPPABLE』『F.F.B.』と2枚続けて、ギドラのシングルが市民団体などから抗議が来て、発売停止になってしまった。理由は歌詞が不 適切だということ。特定の層を蔑視しているんじゃないか、偏見を持っているんじゃないかというのがその理由。オレとしてはそんなつもりはまったくなかっ た。だからそう解釈されたことはすげぇ残念だった。ただし、いくら比喩であった、そんな意図はなかったとしても、比喩だとわからない人にとっては、攻撃さ れたと感じるかもしれない。そういう意味での配慮が甘かった。ただ特定の層を攻撃する気はまったくなかった」(『ZEEBRA自伝』、ぴあ、08年)

ラップ・ミュージックと反ホモフォビアの現在 フランク・オーシャンからキングギドラまで - ライブドアニュース

という主張を各々していたようだ。

ここでは両者共に、差別意識はない点を挙げ、ジブラさんに関しては「配慮が甘かった」と述べている。この発言が、長谷川さんのように周りから怒られたからではなく、彼の真意であり意識の変化であるなら、自身の言葉の責任を感じていると読み取れる。

しかしその後セッション22においては自身の配慮の甘さよりも寧ろ、比喩表現として、時代性や文化的な側面での説明に終始する事で、質問をかわしているようにしか聞こえなかった。

 

閉じたヒップホップの世界で「ホモ野郎」が当たり前の表現だったとしても、それを知る人は決して多くは無い。現在では日本でもヒップホップが広く知れ渡り 『ドライブバイ』の発表当時とは大きく変わっているが、それでも「ホモ野郎」がワックMCの喩えで本気で殺すつもりはなく批判として「命奪ってもいいか」 と表現しているなんて、普通は理解できない。それはヒップホップを知る人達のみの知識や情報である。『ドライブバイ』はラップだ、ヒップホップが好きな人 やキングギドラファンは聞く、だがそれ以上に様々な場所へ広がっていくのが音楽であり言葉だ。どんな表現でも万人に理解され、共感されるわけはない、それ が過激な言葉で攻撃的であればなお更。その表現に傷つき嫌悪や違和感を覚える人が多くいるのは当然だった。

 

ラジオは時間の問題もあり充分な説明が出来なかったのかもしれないし、このような質問の度に自身を責めて謝る必要はないとは思うが、心のどこかで自身の意識の低さよりも、当時はそういう言葉を使うのはアリだった事に責任を置きたいように見えてしまう。これは見え方の問題なのでジブラさんやキングギドラからすればそんな事はないと反論されてしまうだろうが、一連の騒動で自分の責任を認めているようで、その実は全く認めておらず自分が理解されていない事を主張する長谷川さんと少しだけ重なってしまった。

 

キングギドラと長谷川豊と私と

ここで音楽ライターの磯部涼さんの発言を引用させていただく

僕にしても、伊藤の文章が載っている「blast」02年8月号の特集 「“UNSTOPPABLE“OR“STOPPABLE”?~キングギドラ自主回収を考える」で、「差別意識には潜在的なものもあるので、差別する意図が なかったという言い訳は通用しない」というようなことを話しているんだけど、一方で、ほぼ同時期に発売されたコンピレーション『Homebrewer’s Vol.1』収録のMS CRU(現・MSC)「新宿アンダーグラウンドエリア」のレコーディングに立ち会って、漢のホモフォビックなヴァースを聴いたときは、それを咎めていない からね。「ん?」と引っかかりつつも、「まぁ、不良だし、こういうことも言うだろ」ぐらいに思っていた。要は、単に意識が低かったんだよ。ただ、オバマと 比較するのは不相応だけど、自分も「この問題に関して次第にevolution(進展)してきた」し、日本のラップ・ミュージックだってそうであって欲し い。

ラップ・ミュージックと反ホモフォビアの現在 フランク・オーシャンからキングギドラまで - ライブドアニュース

ここで彼の言う「単に意識が低かったんだよ」という言葉こそ、シンプルかつ全てを物語っている。比喩表現としての側面や文化、時代性を強調して自身の歌詞や発言の責任を説明しようと言葉を重ねたところで、いやいや結局「単に意識が低かったんだよ」の一言に尽きる。検証として比喩表現のような要素を語る事は重要だが、私にはキングギドラのメンバーが語る言葉よりも、磯部さんが『新宿アンダーグラウンドエリア』のレコーディングで「こういうことも言うだろうぐらいに思った」感覚を率直に吐露し、自身の意識の低さを認める発言に説得力を感じる。

そして、それは『ドライブバイ』を普通に聞いて特に問題を感じず、後々騒動を知ってはじめて気づいた私自身の意識の低さそのものである。私のように何も意識せず聞いていた人が他にいるかもしれない、そういった私を含めた集積が無意識の差別を肯定してしまう「比喩表現」という説明を彼らにさせる要素であった事を肝に銘じておきたい。

 

最後に長谷川さんの話に戻ろう。彼曰く「殺せ」はスラングで本当にそう思っているわけでは無くそれぐらいちゃんとしろよ、という気持ちだったとの事。真面目な論文では誰の目にも留まらないので、そういう目を引く表現で注目を集め人々の問題意識を高め議論を深めていきたかったようである。

それは彼自身が設定した世界でのルールでしかない。そこで完結するわけはなく、彼自身問題提議を主張しているわけだから、彼の世界の外に言葉がでていくのである。それを未だに自分の真意が伝わっていないと主張し、「殺せ」をスラングという小学生レベルのいいわけで繕う長谷川さんには残念な印象だけが残る。

一時期話題になった、主に学生らによる店舗での傍若無人な行動でのツイッター炎上、仲間内のみOKなノリを面白がれる感性が世界とは相容れない事が理解できないように(彼らの場合はそれ以前に行動が問題だが)長谷川さんも「殺せ」というスラングがどう受け止められるか理解できていなかったようだ。

 

キングギドラも長谷川豊も私も「単に意識が低かったんだよ」

 

Painter2016が$49.99

 
 
 

アメリカのアマゾンでPainter2016のダウンロード版が$49.99なので買いたかったが、私のPCスペックじゃとても動きそうになかったので諦めた。興味ある方はこの機会に購入するのも良いかと。

 

一応URLを貼っておく。アフィではないが、それでも気になる方はPainter2016をアメリカのアマゾンで検索すればすぐに出てくるのでそこから購入を。あくまでダウンロード版なので間違えないように。数が限りあるのでお早めに。

www.amazon.com

 

Painterといえば寺田克也を思い浮かべるが、彼もここ数年はiPadApple Pencil、Procreateという組み合わせで機動力と携帯性を重視した構成で作品を描いているようだ。もうPainterは使っていないのだろうか?

まぁ、彼ほどの力量があれば正直Painterでなくとも十分事足りるだろうが。


寺田克也 作画テクニック ( Katsuya Terada Drawing Techniques)

 

寺田克也は割りと色々な場で手の内を明かしているが、作業工程と雑談(主にこっちがメインか?)や大友克弘との対談、色は塗られていない線画集といった充実した内容なので『ペインタボン!』は面白かった。ある程度技術や知識のある人なら作業工程も楽しめるだろう。(下記リンクも現状はアフィではない。そのうち変更するかもしれないが)

ペインタボン!

ペインタボン!

 

 

 

「Nintendo Switchでいじめが減るかも!?」いやほとんど減らないでしょう

 
 
 

私はゲームが好きだが、あまり詳しくないし10年ほどあまりやっていなかった期間もあるため、ボタンをポチポチ押してなんとなく楽しんでいるぐらいの超ライトユーザーである事は予めことわっておかなければならない。

そんな私でも、任天堂の新しいハードの発表には注目していた。

当初噂されていた様々な情報、全てに目を通していたわけではないが、発表されたあの形態には若干の驚きを感じたのは正直な感想だ。それと共に「これはちょっと苦しいのではないか?」と素人ながらにぼんやりと考えた。今後新たな情報やソフトの展開で大きく化ける事はあると思うが個人的に食指がのびるものではなかった。

私の素人感覚の感想はさておき、任天堂の新ゲーム機の発表は期待と落胆が入り混じったものとなったが高い関心の的である事に変わりはない。それは過去の任天堂の様々なハードを顧みると当然の事だろう。そして、任天堂は新たなハードで「遊ぶ事」の定義を更新し続けた(失敗なども含めて)では今回のNintendo Switchは新たな「遊び」を生み出す事が出来るだろうか?

そこで何気なくさネットの海を漂っていると一つのエントリーが目に入った。

www.mikinote.com

takayukimikiさんのブログは何度か拝読した事があり、とても丁寧で面白く好印象だった。

そして今回の内容に関しては、部分的には同意をしつつも違和感を感じずにはいられなかった。それは子供とゲームの関係性の変化についてtakayukimikiさんの認識は若干ずれているように思えるからである。

 

ゲーム機を持っていない事だけが仲間外れの原因?

 

takayukimikiさんの主張は概ね下記のような内容だ。

 

昨今のゲーム機は一人一台所有が前提(ゲームもセーブが一つしかない場合がある)

友人同士の貸し借りが難しいため、余計にゲーム機を所有している優位性が発生しがち

昔からゲームを所有しているかどうかで仲間外れにされる事があり、現状もそういった仲間はずれが懸念されるが、任天堂の新ハードはそれを解消する可能性を秘めている

新ハードはコントローラーが分離するのでコントローラーだけなら3DSなどを貸すよりも貸しやすいので、元々あった「ゲーム機の所有」する必要性が低下し、格差が緩和される

仲間はずれが発生しにくくなるのでは?

 

確かに、ゲームを持っていない事が仲間外れの原因となる事は私もよく知っている。私が子供の時もゲームを持っている子供とそうでない子供の差はあった。だがtakayukimikiさんの主張で欠如している点が二点ある。

 

持っていない事より、頻繁に借りる事への反発

 

一つは、仲間外れにされるのはゲームを持っていないからだけではないと私は考えている。ゲームを持っていないからこそ、持っている子の家で遊んだり借りたりする。これが仲間外れやいじめへと発展する大きな要因ではないだろうか?

これは個人的な経験を踏まえての話になるが、持っている子の家に持っていない子が頻繁に遊びに来てゲームをやりたがる(ずっと見ている)事を、持っている子達は非常に嫌がっていた。酷いところになると親同士の井戸端会議で「~君がいつもゲームしにうちに来るのが迷惑」といったやりとりがなされていた。子供は、こういった親の友達への印象から影響を受けやすい面もある。

また、元々嫌いな子がゲームをやりに遊びに来ているからゲーム云々は関係ない場合ももちろんあっただろう。だが、はじめは好意的に一緒に遊んでいた子が次第に「自分では買わないのにうちにゲームをしにくるので腹が立つ」といった変化を私は何度か目にしている。

 

従ってtakayukimikiさんの仰る貸し借りの敷居が低くなったので格差が若干解消されるのではという指摘には私は同意しかねる。貸し借りの敷居が低くなったところで、人の心にある「私は持っている、あいつは持っていない。いつも私は貸している、あいつはいつも借りに来る」といったものは払拭されないでしょう。寧ろ、貸しやすくなったからこそ「また貸すのか?私がやる時間が減る」が増徴する可能性もある。これはゲーム機に限った話ではなく、ほかのものに置き換えても同じだろう。大人であってもいつも何かを借りに来る人にはうんざりしてしまう人は多いはずだ。子供は自分でゲーム機を買えないから仕方ない、と思えるのは大人になってからで大抵の子供にそういった家庭の事情を考慮するのは難しい。

 

子供が欲しがる現在のゲーム機

 

次に私が考えるもう一つの点は、そもそも今の子供達はゲーム機を所有したがっているのか?という事だ。当然多くの子供はゲーム機がほしいと考えている事に間違いはないと思う。だが、ここで考えなければいけないのは現在のゲーム機というのは3DSなどのようなものだけでなく、スマホタブレットが含まれている事だ。

 

takayukimikiさんは冒頭で

大人が、家でも外でもシームレスにゲームばかりして遊んでいるってのは、想像しにくいことです。今の時代、皆それぞれ忙しいはずだからね。そんなんだったら、通勤途中でも、お気軽に楽しめるスマホゲームの方が需要あるし、それをプレイする姿の方が自然です。

http://www.mikinote.com/entry/n-switch-s

上記のようにスマホゲームについて言及しているが、子供のスマホに関する認識がスルーされている。

今子育てをしている親御さんの中で、幼児期から子供にスマホタブレットを与えている家庭は増えている。つかわなくなったスマホタブレットでも、それを与えておけば勝手に子守をしてくれるからという理由や、明確な学習目的を持ったものなどその理由は様々だろうが、現在の子供は携帯ゲーム機に接する前にスマホなどに接する機会が増えている。(リテラシーの低い子供へのスマホの危険性や料金のため、ゲーム機にする家庭もあるだろうが)

また、多くのスマホゲームは基本無料だ。端末さえあれば、一応ゲームをする事ができ、ネット環境さえあれば新しいゲームをダウンロードし、世界中の人と戦う事ができる。コアなゲームファンや特別な愛着でもなければ、触って反応が返ってくるレベルでもスマホゲームを楽しむ子供は少なくない。

 

そして、私の周囲の子供の変化を付記しておくと、一時期までは何かのお祝いやプレゼントにはゲーム機、特にDSやWiiが選ばれていた。だが、それがこの数年おねだりの品はゲーム機ではなくなった。スマホなのだ。以前、子供にどうしてスマホが欲しいのか聞いてみたところ「皆、持ってるのに自分だけ持っていないから」という返事が返ってきたことも印象的だ。彼の言った「皆持ってる」はさすがに誇張だろうし、親へのおねだりの常套句ではあるが、確実にスマホが子供の中で浸透しているのは間違いなかった。スマホを欲しがる子が全員ゲームをしたがっているわけではないが、重要なのはゲームも出来る点だ。彼らの興味の対象はコミュニケーションであって、その一部にゲームが含まれている。奇しくもNintendo Switchが皆でわいわいコミュニケーションをしながらというイメージは、スマホで事足りる。実際に集まってやるのとスマホでネット上では違うが、その境界があいまいになってきているし、案外その違いを認識したり、違いを楽しめている人は多くはない。意外と「まぁこれでも十分楽しいし」レベルで日々過ごしているユーザーがいる。

現状で子供が欲しがっている「ゲーム機」というのはゲームを前提としてコミュニケーションではなく、コミュニケーションを前提とした「ゲームも出来るスマホ」という選択肢が広がっている点を忘れてはならない。

 

また、友人同士で集まり、生身である事の優位性は確実に薄れていくのではないだろうか?それはtakayukimikiさんが度々主張しているように昨今、子供の遊ぶ場所が消えていっている事にも関係する。場所がないなら、そこで集まらずおのおのが好きな場所、可能な場所でネットを通じてプレーするので十分ではないかと(決して、それは完全な代替とは思えないし、実際に集まっての楽しさを否定したいわけではない、あくまで優位性の低下を指摘したい)。

 

子供が不在の映像がしめすもの

 

ここである意味でtakayukimikiさんの論旨と繋がるのだが、子供は何かを持っているかいないかが大きな格差になる。

そして今の子供はスマホを持っていないと仲間外れにされる(されると思っている)事の方が、ゲームの所有などより大きいのではないだろうか?ましてや、スマホでも一応ゲームができ次第にゲームのクオリティも高くなってきている。子供の遊び場が公園や家ではなく、ネット上やゲーム空間そのものに(並列)移行している。そんな現状で、実際に集まってプレーするゲーム機を持っているかいないかが今後重要な要因に成るとは考えづらい。

 

冒頭takayukimikiさんはNintendo Switchのプロモーション映像の違和感を述べている。子供の不在である。私は寧ろ、その不在こそ実は現状のゲーム環境を打破するための、任天堂が目指す方向性なのだと思う。

任天堂は玩具屋だ。子供に背を向けるはずはもちろんないし、今回も子供に向かっていくはずだろう。だが、昨今の厳しい現状から今までどおりの道程で子供に届けるのは難しい。だからこそ、道順を変えていこうとしているのではないだろうか。

 

wiiやDSがヒットした要因にゲーム以外のソフトや楽しみ方を広めた点が挙げられるだろう。例えばDSで大ヒットした脳トレを筆頭に、勉強や語学、料理、など様々なジャンルのソフトが手軽に携帯端末で体験できた。

ここで重要なのが子供がおねだりする理由をうまく生み出した事だ。ゲーム=悪といったら言いすぎだが、ゲームするより勉強しなさいと考える親は少なくない。そこを逆手に取るように「お母さん、DSはゲームだけじゃくて勉強もできるんだよ」と格好の理由を子供に与えた。これは大きな勝因の一つだと私は考えている。ゲームに詳しくない親にとっては「勉強や脳のトレーニングになるものもあるのならまぁいいか」という具合で懐柔された親も少なくないのでは?

加えてWiiは体を動かすゲームや体の管理、「家族や友達皆で」といったイメージを展開する事で、家でこもって健康に悪そうなイメージを払拭し健全で楽しいものをいう印象付けに成功した。

だがこういった戦略はもはや浸透しきった上に、スマホとネット環境の前では力不足となってしまった。

 

前 述したように、すでに子供にとってゲーム機は私たちが子供だった頃のゲーム機ではなくなってきている。では、プロモーション映像にでてきた青年~大人達は どうだろうか?彼らの多くはすでにスマホタブレットを一人一台所有している。そして、子供の頃から「ゲーム機」に親しんで成長してきた。そんな彼らにス マホゲームとは一線を画す体験としてのゲームを任天堂を放とうとしているのではないだろうか?そして、それはあくまでも初手であり、大人である彼らが主な 購買層になる事で本陣である子供たちへの波及や展開を広げていこうとしているように私には思えた。

今までのように子供がおねだりするものではなく、大人がプレーしそれに影響され子供がゲーム機を体験する。そして子供たちが成長しゲーム機の記憶や体験から、スマホではないゲーム機を購入する、そしてまた自分の子供や家族へと脈々と繋がっていく未来図を任天堂があの映像にこめていると憶測する(成功するかは別として)。

 

おわり

 

takayukimikiさんのエントリーにケチをつけているかのように思われるかもしれないが、彼の主張したい事は理解できるし、同意する部分もある。また、ゲーム機の所有が与える格差は今も存在し、今度も新ハードでそれが「多少」解消されるかもしれないという点にも希望をこめて同意をしておく。彼はそこまで強い意味で書いた事ではないのは重々承知するが、この新ハードによりいじめはほとんど減らないだろう。むしろ、論じるべきは、公園や家が遊び場であった以前までとは違い、ネット空間が大きな場を形成しゲームの所有がスマホへの所有へと移行、さらにはそこで発生する大きなコミュニケーションの問題に子供たちが直面しなければいけないという現状だ。

所有の有無で仲間外れにされるだけでなく、所有した先に新たな仲間外れのがあるかもしれない。

 

takayukimikiさんも仰るようにゲーム機はコミュニケーションツールでもあり、皆でわいわいと楽しめるものだ。ゲーム機ではない、コミュニケーションを前提としたスマホがゲーム機を飲み込み子供たちの求めるものになったのも、やはり人は誰かと何かをする事、繋がる事をずっと欲しているのだろう。

 
 

話題の中枢から逸れるが長谷川豊氏のブログに関して

 
 
 

長谷川豊氏のブログ記事を発端とした問題は反論に反論を重ね今もぼんやりと燃えている。

彼のブログコメント欄を見ると長谷川氏に賛同する声も多く見られるし、あくまで自称だが医療関係者からの賛同コメントもあるようだ。やり方や表現に疑問を呈しつつも議論が巻き起こる事を歓迎する声も少なくない。

長谷川氏も

私は、炎上ってとても素晴らしいものだと思っています。

だって拡散できるのだから。

私はネットに全然詳しくないし、拡散とかよく分からないし。

でも、一人でも多くの人に知ってほしいのです。一人でも多くの方々に考えてほしいのです。

その為には…これはもう何度も何度も同じことを書いてきているのだけれど…「ハセガワという極論を言うバカ」を叩いてスカッとしながらでも全然いいのです。

 

「ハセガワ」をバカにしながら、それでもみんなで少しでも知って考えることが大事なんです。 それくらい、今の日本の経済状況や社会状況って悪くなっているんです。

人工透析の現場と現実 : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』

と述べている。問題発言や過激な表現で議論を誘発させる事はあるだろうが、炎上した結果を「いや、これをきっかけに考えてほしかったのでむしろ良かった、自分は叩かれるが皆のためになるから大丈夫」という姿勢は、自己犠牲によって世界を救済しようとする物語の主人公きどりのようで聞いていて恥ずかしくなる。自らの失態や意図せぬ炎上を正当化し、自己の精神的な安定をはかるためにしているようにしか見えないので控えたほうが良いと個人的には思う。

 

 

波紋は過激な発言でなくても起こせるのだから。

 

長谷川氏の自論の補強としての障がい者

彼の言うように結果的に今回の事が拡散され多くの人に知られた。元々人工透析患者や社会保障に関して疑問を持つ人や異議のある人もいるだろうし、まったく意識すらせず今回のことで初めて知り考えた人もいる。確かに議論や有益な情報が人々に共有される事は歓迎されるべきだが、それが事実と異なった場合であればどうだろうか?

 

 

彼のブログではこう書かれている

 

人工透析患者は「身体障がい者1級」に該当するようになっています。

え?身体障がい者

そうです。人工透析患者は「1級の身体障がい者」に認定されます。で、そうなるとどうなるか

 

・映画館の利用が常に半額(者1人同伴も半額)

・公共交通機関の利用料の半額(者1人同伴も半額)

・タクシーの初乗運賃の無料チケットが貰える(1枚1枚にに利用期間の設定有り)

・高速道路の利用料金の半額

 

など、様々なサービスが受けられます。もちろん、ディズニーでもほとんど並ぶ必要がありません。だって障がい者ですから。横入りし放題です。

 

で、「1級」なので「障がい者年金」がもらえます。毎月かなりの額ですが、それらは地方自治体によって差があります。さらに、彼らは「医療費」をすべて無料で受けられます。だって「1級障がい者」ですから。

自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!! : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』

 

話題の中心である人工透析患者(彼の言う自業自得の透析患者)を批判するために、関連する障がい者に関する言及をしている。こういった情報を並べれば多くの共感を得られる打算があったのだろう。

すでにnukalumixさんによって他者ブログからのコピペが指摘された上に、障害者手帳の等級と障害年金の等級に関する混同や身体障害者1級だからといって障害年金が支給されるというわけではない事が指摘されている。 詳しくはnukalumixさんのブログを参照して頂きたい。

nukalumix.hateblo.jp

 

長谷川氏は自論を補強するために障がい者に関する話題を持ち込んだが、それにより人工透析患者のみならず障がい者に対する風当たりも強くしてしまっている。彼のブログを読んで障がい者年金に関する間違った知識を持った人もいるだろう。 「ディズニーランドの列にほとんど並ぶ必要がなく横入りし放題、なぜなら障がい者だから」と言っているがこれは誤読を誘導している。

 

「並ばなくて良い」事の身体的配慮、「横入り自由」という時間的優遇の誤解または混同

まず、ほとんど並ばなくて良いのは事実である。それは身体や精神的に長時間並ぶことが困難だからディズニー側の配慮がされている。

そして横入りし放題というのは間違い。し放題などというルールはない。

 

これはどういう事かと言うと、ゲストアシスタンスカードというサービスがディズニーにはあり、障がいのあるゲストや介助者は長時間並ぶことが困難なため別場所で待機し、時間がきたらアトラクションを利用するというものである。

彼の言う「横入りし放題」は時間がきたのでアトラクションを利用するために障がい者が待機場所から戻ってきた事を指しているのだろう。少なくとも障がい者だから並ばず好きな時間に横入りしてアトラクションを利用できるわけではない。

長谷川氏の場合、巷で言われる「並んでいない障がい者が割り込んできた」といった言説をそのまま書いているのか、巧みに事実と事実と異なる情報を併記し、いざとなればどちらにもとれるようにし本心では障がい者優遇説への反感を煽ろうと記述したのかは分からないが、彼の発言を見ていると前者ではないかと推察する。

 

「並ばずに横入りし放題」という文言を見れば多くの人は「障がい者は待たずに時間をかけずアトラクションで遊べる」と誤読するのは火を見るより明らか。公式でも指摘されているように時間的な優遇はない事を強調しておきたい。

 

また、人工透析者=障がい者としての記述であるから、それ以外は記述する必要はないと思うかもしれないが、このゲストアシスタンスカードは決して障がい者限定の優遇措置ではない。これではまるで障がい者のみ優遇されていると誤解しかねない。

公式サイトによれば

 

ゲストアシスタンスカードは、疾病、負傷などにより体の機能が低下し(一時的な場合を含む)何らかのお手伝いを必要とされる方の、パークでの負担を軽減するためのサポートツールです。

カードには利用される方のお名前とグループ人数、その方に合わせたお手伝いの内容(ベビーカーのままご案内/ご希望の席にご案内/スピーカーの近くにご案内/待ち時間経過後にご案内)が記載されます

【公式】サポートツール|バリアフリー|東京ディズニーリゾート

 となっており、利用対象者は

 

身体障害者手帳精神障害者保健福祉手帳療育手帳所持者および疾病、負傷などにより体の機能が低下している方(高齢者、妊婦を含む)

【公式】サポートツール|バリアフリー|東京ディズニーリゾート

となっている(同伴者含む)。負傷による一時的な身体の機能低下の場合も利用できるため、決して障がい者限定ではない。

 

果たして優遇なのか?

もしかしたら、並ばずに自由にアトラクションで遊べるわけじゃなくても、他のゲストは並んでいるのに別場所で休んで時間がきたら列に戻れるのはやはり優遇されている、と反論があるかもしれないが公式サイトにはこうも記述されている。

 

ご利用いただくまでの待ち時間は、列に並んでいる時間とみなします。その間に他の対象施設をご利用いただくことはできません。《中略》(お手伝いの内容やアトラクションの特性により、待ち時間は列に並ぶ方よりも長くなる場合があります)。

【公式】サポートツール|バリアフリー|東京ディズニーリゾート

 

上記のように実際に並ぶよりも待ち時間が長くなる場合があると公式で発表されている。ディズニーランドで余計な待ち時間が発生する可能性というのは意外と大きな痛手だ。元々長い待ち時間の上さらに持ち時間が削られるわけであるから、人によっては致命的なマイナス点になるだろう。また、ゲストアシスタンスカードを利用するゲストは単に並ぶのが困難なだけでなく、アトラクション間の移動による時間ロスや疲労が不自由のないゲストと比べ大きい。

 

確かに健康な人でも長時間、特に夏場などは立ったまま待つことは非常に辛い。別場所で待っている人を見ると、ずるいと感じてしまう気持ちもわからないでもない。だが、割り込んで並んでいる人に実質的な不利益を与えているわけでもなく、上記したようなマイナス面も抱えながらルールに則り公式のサポートを利用している人を、長谷川氏のような言及の仕方で「だって障がい者ですから」という皮肉めいた姿勢で見る事を私はできない。

それでも、「そんなに大変ならディズニーくるな」といった反論や、「それでも優遇だ」、「障がい者を利用して複数の健康な同伴者が優遇されている」といった意見に対して私は何も言えないし多分言っても意味がないだろう。私は障がい者や何らかの問題を抱えているから、何もかも優遇され優しくされて当然とは決して思わないし、その結果弱者とされる人が強者と化し横暴に振舞うことは批判されるべきだと思っている。全てを寛容にする必要はない、だが、ディズニーランドで並ぶのが困難な人が他の場所で待つことぐらい許せない世界ほど寂しいものはない。

 

その他のサポートサービス

ディズニーには他のサポートサービスもあるのでリンク先の公式サイトを参照してほしい。

www.tokyodisneyresort.jp

視覚に障がいのあるゲストへ向けた触地図ガイドブックやスケールモデル、音声ガイドシステム、点字メニュー、聴覚に障がいのあるゲストには字幕表示システム。他にもストーリーペーパー、インフォメーションブックやCDなどが用意されているので是非利用してほしい。

 

最後に

話題の中心から逸れ、多くの人からどうでも良い事で重箱の隅をつつくなと思われるかもしれない。

だが、こういった話題の一部に誤解を招くことが含まれ、例え一つ一つは些細な事でもそれが肥大し当たり前のように人々の意識に浸透してしまう事を回避したかった。

 

長谷川氏はこう述べている事を最後に引用させてもらう。

取材者の秘匿義務もあるし、出来るだけ若い方々にも読みやすいように内容をすっ飛ばして書き連ねるところは多々ありますが、私はこういうブログを書くとき、ウソや適当なことは絶対に書きません。 

人工透析の現場と現実 : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』

 

 

歩きスマホ

11時過ぎ、大学の構内にいる。
いつもより多くの学生が屯している。
この時間は講義中なので、いつもはもっと人の数がまばらだ。授業が早く済んだのか、早めに来てぶらついているのか、それともサボっているのか。

歩きスマホへの注意喚起の張り紙に気付くこともなく、スマホの画面を熱心に見ながら張り紙の前を素通りする男子学生。

何やら会話が弾んでいる様子で、「早くしろよ」「うっせーもうちょいだよ」「へたくそ」「はよはよ」と笑いながら戯れる5人グループ。彼らの手にもスマホがにぎられてる。

「え!?延期じゃないの?来週になるのかと思ってた。今日だったの?」と驚いて友人に問う女学生。「さっき始まったよ」とスマホの画面を見せる友人。「知らせてよー」と口を尖らせながら、スマホを操作する女学生。何かの予定が変わったのだろうか。

顔見知りの初老の教授とすれ違う。軽く会釈をした際、彼が抱えていたプリントの束を落す。すぐに拾って足早に去っていく。彼の手にはスマホはなかった。

ご飯を買いに行くため人を待っていた。
二人組の学生がこちらに向けてスマホを向けている。なんだか、自分がカメラで撮影されているようで少し居心地が悪い。場所を変えようかと、歩こうとした際二人組の片方が「よしっ!捕まえた」ともう一人の学生に、笑って見せていた。「おーっ」と小さな声を出して二人で喜ぶ姿はなんだか、小学生みたいだった。

そうか、ポケモンGOの日本配信が始まったのか。
彼らの楽しそうな顔を見て、小学校の頃、公園でゲームボーイを手にしていた自分を少し思い出した。

でも、歩きスマホは注意してね。